光の旅人K-PAXから愛をこめて♪


by takozchan
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カテゴリ:*バロン西( 14 )

バロン西再び・・その3

今日8月15日は62回の終戦の日となります。
一昨年、戦後60周年記念番組・NHKスペシャルのお手伝いで、ちょうど終戦直前の8月
10日、地下壕での御前会議から始まった美山大佐のポケット手帳に触れました。
一日一日、切迫した様子が字体にも現れ、陸大臣と海大臣の丁々発止のやりとり、また
アメリカ軍の先遣隊が日本に到着する前日、密かに東条大将の自宅を訪ね、東条が皇室・
軍・靖国・戦争責任等・・大事な事項を語った重要な箇所などなど。。
夢中で一字一字追いかけました。貴重な思い出です。

相変わらず猛暑が続き、あちこち観測史上最高の気温で、40度を越えるところも
出ました。何という暑さでしょう!!
私は兼ねてからの満州に関する資料をまとめるため、図書館へ・・・。
しばらく時間がほしい!!!

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それでは“バロン西再び・・”最終章をお送りいたします。

Topics「“バロン西”をめぐる人々」   ホースメイト7月号より (抜粋)
*****************************************
西を知る上でこんな奇縁もあった。1965(昭和40)年、敵味方に分かれて戦った
アメリカ人が突然、西大佐の妻・武子と泰徳のもとへ訪れた。元B29の機長・サイ・
バートレット。西とロス五輪の世話係で知り合った。最初、日本人ということで嫌がっ
たが、人柄にほれ込んだ間柄だった。だが、後に西は硫黄島へ、バートレットは
B29の機長となり日本を爆撃した帰りに被弾し、西が戦死した硫黄島に不時着して
助かった。戦後、その島で西が戦死したことを知り「お墓参りをしたい」と来日、靖国
神社で慰霊祭まで行っている。出会いから20年余、尽きぬ友情が脈々と息づいて
いた。
********************************
1985(同60)年2月19日、硫黄島戦闘40周年記念行事が日米の軍人・遺族らで
行われた。石碑には日米両国語で「我々同士は死生を超えて、勇気と名誉を以って
戦ったことことを銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を心に留め、且つ決して
之を繰り返すことのないように祈る次第である」と記された。(上坂冬子著「硫黄島
いまだ玉砕せず」)。
1968(同43)年、硫黄島は日本に返還され、東京都に属する。しかし、海上、航空
自衛隊の基地で民間人は原則訪れることはできない。地熱が高く、蛇も生息できない
乾いた島には、深夜かすかな芳香を漂わせながら、わずかな時間花を咲かせ、萎む
月下美人や、かむと身をよじるほど辛い野生の島トウガラシが生える。「将兵の死と
怨念を吸い込んだ植物」という人もいる。今なお遺骨収集が思うに任せないことへの
怨嗟かもしれない。島の戦後は終わっていない。            (宮沢國雄)
**********************************
     硫黄島
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長々とご覧いただき、ありがとうございました。何かを感じ取っていただけましたでしょうか?
8月15日は、再び歴史を振り返り、一人ひとり自ら学び、考える日となってほしいと思います。
また折に触れバロン西シリーズをお送りいたします。


またいらしてくださいネ~☆
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by takozchan | 2007-08-15 23:00 | *バロン西

バロン西再び・・その2

今日も暑い一日でしたね。
大きな夏雲が、元気よくグングン空を横切って行きました。
昨日に続いて、今宵も“バロン西”に心を馳せましょう。。

Topics「“バロン西”をめぐる人々」 ホースメイト7月号より (抜粋)
*********************************
1930(同5)年頃、西が2年後に迫ったロサンゼルス五輪馬術選手候補に選ばれ、イタリア
に留学中の今村少佐から紹介されて購入したのが、フランス産アングロノルマン系の去勢場
ウラヌス(天皇星の意)号だった。体高174cm、悍威の良さと柔軟性を備えていた。
五輪大会大障害飛越最終日、メインスタジアムを埋めた10万を越える大観衆の目の前で、
本命視されていた米国選手をおさえて見事に金メダルを獲得した。インタビューで西は
「We.Won.(自分とウラヌス号は勝った)」と応じ、当時の日本人への敵愾心を越えて、
世界中の人々を感動させた。
*********************************
西は現役軍人ながら貴族の集会所に出入りする一方、米英などに知人が多かった。髪を
七三に分け、バイク(ハーレー)や外国製のオープンカーを乗り回すなど派手な言動の
“自然児”でもあった。陸軍騎兵学校教官までは栄転の道を歩んだが、五輪(ベルリン大会)
後軍務に戻ると陸軍内の風向きが変わり、いわれなき“親米派の不良軍人”の烙印を押され、
西家には絶えず監視がつくようになった(城山三郎「硫黄島に死す」)。
*********************************
日中戦争が太平洋戦争へと拡大に向かうと戦闘様式も一変、騎兵部隊は機械化部隊となり、
西は戦車連隊長となった。北満の匪賊討伐から硫黄島へ・・・悲劇の幕が開いた。
44(同19)年、硫黄島への行路、米潜水艦の攻撃を受け戦車もろとも輸送船は沈没、戦車
補充のため東京へ戻る。再度硫黄島へ向かう直前、馬事公苑で過ごしていたウラヌスに会い
にいくと、ウラヌスは狂喜してくびを摺り寄せてきたという。
それが家族や愛馬との永遠の別れでもあった。
*********************************
擂鉢山への道
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東京の南1250km、玉砕の島。サイパンと東京のほぼ中間にある硫黄島。
戦時中、日本本土への攻撃を一日でも遅らせるため米軍と死闘を繰り広げた。米軍7万に
対し日本軍は2万1000人。日本軍は援軍・補給なしで、火力で3500倍という米軍に対し
島中に地下壕を掘り「一人10殺」を掲げ戦った。米軍の死傷者は2万9000人、地上戦で
米軍が日本軍を上回る死傷者を出した唯一の戦場となった。
*********************************
トーチカ・・中に錆びた機関銃がありました
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自衛隊機C-1輸送機
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明日14日、最終章をお送りします。

またいらしてくださいネ~☆
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by takozchan | 2007-08-13 22:22 | *バロン西

バロン西再び・・

昨日は不思議な日でした。
“西竹一さんの事を色々調べていたら、このブログへ辿り着きました”と、突然コメントが
入りました。ネットの数々ある中を検索された上でのことでした。
こんなに嬉しいことはありません。
そもそも、私がこのブログをスタートした大きなコンセプトの一つでもあり、以前ブログにも
書きましたが、硫黄島で散ったロスオリンピック大障害飛越の覇者・バロン西の生涯を
一人でも多くの方に知っていただき、人間として、また日本人としての誇りと平和の大切さ
をお伝えしたいという願いがありました。
そんな喜びの中、合わせたかのようにJRAの友人から、馬事協会の季刊誌「ホースメイト」
の7月号に載ったバロン西の記事が入ったお手紙が届きました。

今宵は、急遽バロン西について語りましょう。。
************************************
Topics『“バロン西”をめぐる人々』  2007.7月号「ホースメイト」より

 日米で2万7000人の将兵が散った太平洋戦争最大の激戦地、硫黄島。世界の戦史に
名をとどめた未曾有の攻防戦から62年を迎えるいま、その記憶が再び蘇っている。
今年、アカデミー賞にノミネートされた映画「硫黄島からの手紙」が火付け役になり、ロサ
ンゼルス五輪で日本唯一の馬術部門金メダルに輝く“バロン西”の生涯が内外に感銘を
与えている。生きる歓びと運命の皮肉と悲しみ・・・こよなく人と馬を愛し、怒涛のように
駆け抜けていったバロン西とは、どんな人だったのか。
****************************************
バロン西・慰霊碑 ハウディーナポレオンを・・ 1998年6月
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また、バロン西への遥かなる想いが戻ってきました。
「一時的な盛り上がりで戦いの記憶を風化させてはならない」「島には眠ったままの遺骨
が半分以上あるのは、本当につらい。遺骨収集が進むことを祈ってやまない」と、西大佐
のご長男、西泰徳硫黄島協会副会長の言葉が書かれていました。
1998年6月、奇しくも私自身、大海にポッカリ浮かぶ小さな島・かの激戦地硫黄島の地を
踏んだのでした。
硫黄でムンムン暑い塹壕の中に入った時、一人がカメラのシャッターを切ったところ、何度
押しても手ごたえがなかった。私も同じでした。塹壕を出たら何事もなく切れたと話していた
のですが、帰りのC-1輸送機の中でまた一緒になり、彼曰く、「我々が入った塹壕の中から、
丁度3日前にご遺骨が見つかったばかりだったと後から聞いた」とのこと。その時、まだ多く
の英霊が眠っていることを身をもって知りました。
この続きは、明日お送りいたします。またご覧下さいませ。  
 

またいらしてくださいネ~☆
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by takozchan | 2007-08-12 23:11 | *バロン西
2006.12.15

今帰りました。このところ仕事関係プラスα**で、忘年会つづき・・
でも、毎日ご覧いただいて下さる皆様に何とかきちんとお送りしなけ
ればと思います。
ご覧いただいている方、お一人お一人に心からお礼を申上げます。
これからも拙いブログですが、愛してやって下さい(^-^)

☆☆☆
何よりも馬とお酒を愛したバロン西!!!
今日もお送り致します。
西とウラヌス。。。どんな出会いになったのでしょう。
その激しいバトルが目に見えるようです!!
素晴らしい!!!

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西独特の調教           「西とウラヌス」より抜粋
 
ここで西独特の馬の仕込み方について紹介しよう。
彼は他の馬術家と違って、平素から相当高く、また幅のある大障害の
飛越の練習をしていた。
こんな大きなものを一体本当に飛ぶ気かしら、と疑われる程の障害を
置かせて西は、周囲で見守る人々に心配をよそに、どんどん飛んで
行くのである。
ウラヌスがあの大きな蹄で、強く短切に大地を蹴って、見かけによらぬ
猫のような、またゴムマリのような身体の柔かさにものをいわせて人の
背よりも高い、しかも幅のある大障害を飛越するのは、まさに壮観その
ものである。
 
傍で見ていると、実際ブゥーンという独特の唸りを感ずるようであり、こと
に屋根にある室内馬場の場合には、特にその響きが力強く聞き取れる。
それは丁度意合の名人が一太刀振ればヒューッ太刀風を生じるように、
また野球の上手な人が、空間でバットを振るとシューッと唸りを生ずる
のに相通ずるものがあるようであった。
西とウラヌスの場合、人馬渾然一体、いうにいわれぬ妙味が自然に発す
る唸りで、見るものは思わず感嘆の声をあげたものだ。
しかし障害が余りにも大きすぎると、さすがのウラヌスも時にはおじ気づ
いて、障害の前に両足肢を突張り、後肢をすべり込ませてすくんでしまう
ことがある。

こういう時、普通の騎手ならばこの衝撃に堪えかねて、人間だけ障害の
向う側に放り出されてしまう。それでも「人間だけでも障害を飛べば良い
のではないか」と、痩せ我慢の台詞を残して、実は溜息をつく所であるが
西の場合、騎座(腰から膝までの鞍に着く部分)が飽くまで堅確なため、
馬が急に止まってもビクともしなかった。
しかし、それからが大変!
西の蒼白な顔が怒気を含んで、見る見るうちに紅潮してきたかと思うと、
例によって障害鞭を逆さに持って、ウラヌスの両頬を、平顎を所かまわ
ず矢継ぎ早にひっぱたくのである。

ウラヌスは、最早観念して頭を左右に振りながら、西の鞭をかわそうと
する。
やがてせめて眼だけは保護しようとしてか、瞼を堅くつむって時々恐る
恐る眼を開けては西の顔を盗み見る。
相棒の愛欄土が非常にやんちゃなので、時々西の鉄拳をくらい眼を痛め
たことがある。(もっともそのため、西は軍馬を傷つけたかどで、監督の
遊佐大佐から処罰を受けている)ウラヌスもおそらく眼をいためることを
警戒していたのかもしれない。

人と馬との激しい闘争がひとしきり終わると、ウラヌスは前非を悔い、頭を
垂れて、もう完全に西に降参してしまうのである。
西はこの機会をとらえ、すぐさま馬首をたてなおして、再び前の大障害
に向かって突進する。素晴らしく利く脚の推進力だ。しかし彼は脚を極め
て短切に使うから、外から見ていたのでは脚の操作が少しも目立たず、
一体どうしてあんなに利くのか不思議な位である。
 
今度こそは飛ばせずにはおかないという、西の堅い決意が電気のように
ウラヌスに伝わる。ウラヌスもまた必死である。
人馬の気合いが完全に一致して、さしもの大障害も鮮やかに飛越する。
西はいつもの癖で、首を振るように素早く右後に回して、積木が落ちた
かどうか確かめた後、すかさず手綱を強め、大きな手でウラヌスの頬を5、
6回叩いてやる。
ウラヌスもほっとして嬉しそうに西の愛撫を受ける。ウラヌスはものこ
そいわなかったが、栄冠の蔭にはこのような血のにじむ苦労があったわけ
である。

*********************************************
本日で「西とウラヌス」シリーズは終ります。
一人でも多くの方々の心に“バロン西&ウラヌス”が残っていただけます
ように・・・
日本人として誇りをもって!!!これからも・・・!!



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by takozchan | 2006-12-15 22:48 | *バロン西
2005.12.14

    図書館前、今年も真っ赤!!  
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 「ウラヌス」 日本の土を踏む    ~抜粋~

ヨーロッパの本場で武者修業を終えた西は、やがて日本に帰り、ウラヌスも
また、初めて日本の土を踏んだ。
これに先だって西の所属していた騎兵第一連隊では、後藤連隊長が、「ウラ
ヌス」が日本に来たら騎兵学校に預かって貰いたいという口約束を、学校と
の間で結んでいた。後藤が軍馬補充部から転任して、西の直接の上官に
なっていたのも奇縁である。

愈々ウラヌスが日本に着いたので野口連隊副官は、馬の預託に関する公文
書を騎兵学校へ送った。
時の校長は、柳川平助少将であったが、書類を見て憤慨し、後藤連隊長を
習志野に呼びつけて、「個人の馬の飼育を学校に頼むのに、出向いてきて
礼を尽くすこともなく、一片の書類をつきつけてくるとは何事だ」と叱りつけた
エピソードもある。

結局ウラヌスは調教のため施設整った騎兵学校に預けられることになった。
当時騎兵学校の学生だった私が、初めてウラヌスを見たのは、この馬が学
校にきて間もない頃のことである。
私等がぞろぞろと厩に近づいて行くと、ウラヌスは耳を後ろにし、眼をむいて
大きな顔をヌウーと突き出して、噛みつこうとする。驚いて後ずさりしてよく見
ると、まるで馬のお化けのようだった。

印南教官は、西が買ってきたことも何も説明せずに、学生にこの馬を鑑定
させた。多くの学生は「理想的な重砲馬」と解答して得意になっていたが、
教官から、西の買ってきた名馬であることを聞かされて唖然としたものだ。


♪♪♪
明日は、プラスワン!!
「西とウラヌス」から“西独特の調教”をお届けしてこのシリーズは終ります。



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by takozchan | 2006-12-14 19:34 | *バロン西
2006.12.13

バロン西とウラヌスとの出合い(つづき)をお送り致します。

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  名馬を求めて  ―ウラヌスとの出合い―     つづき

西は今村から「名馬を見つけたが誰か買い手はないだろうか。これを見逃す
のは全く惜しい」という内容の手紙を受け取った。
元々血の気が多い西のこと、気の早いのも彼の癖で、今村を信頼して早速
ウラヌスを買い取るように電報で交渉した。
これと相前後して、東京の軍馬補充本部にも今村から、「ウラヌス」を買わな
いかという問合わせの通信が入っていた。

ある日西はひょっこり補充本部に現れて、後藤斬馬太大佐に「あの馬を是非
私に買わせてほしい」と申し入れた。
後藤大佐は野沢兵四郎技師と相談の上、西がもし私費を投じて買うならば
よかろうということになった。
愈々ウラヌスを買うことに肚を決めた西は、大喜び、直ぐさま上司にお願い
して、半年間の休暇を貰い、取るものも取り敢えず、名馬を求めてイタリーに
向けて旅立った。1930年(昭和5年)4月のことである。
日本郵船、秩父丸の処女航海の便をとらえ、アメリカ経由は、2年後にオリ
ンピック大会の行われるロスアンゼルスを訪ね、競技場の下見聞をするため
である。

このあたりはなかなか周到な心づかいであるといってよい。それから大西洋
を渡りイタリーに着いた。
「あの時分、たった一人ではるばるヨーロッパまで馬を買いに行くとはいい
度胸だよ」と、後年後藤氏は私に述懐したものである。
西がウラヌスを買うという知らせがローマに着くと、今村は当時委託学生と
してトリノの陸軍大学校に在学していた。有末精三大尉(後の中将、現郷友
会連盟理事長)と相談してなるべく安く買わせてやろうと、二人で奔走した
末、6000リラという値に落ちついて、彼の到着を待っていた。

西はローマ到着の翌日、初めてウラヌスと対面した。後の名騎手西と切って
も切れない縁はかくして結ばれたのである。ウラヌスはフランスで生まれた
「アングロノルマン」種の去勢馬である。父母は記録にないので血統は明ら
かでないが、桿の良さ、柔か味のある点から考えても優秀な血統を多分に
受け継いでいるに違いない。
体高実に1メートル81センチ、稀に見る巨大な馬で四肢の筋肉は良く発達
し、蹄は誠に大きい。やや彎膝の傾きがあり、栃色の栗毛で額には白い星が
あった。 頭は大きく顎は太く長く、肩はよく傾斜して障害馬としては申し分な
い体型備えているが、軽種系に見るような気品はなく、ひと口に評すれば怪
物のよな、とにかく偉大な馬であった。

これに反して西は、馬術家にもっともふさわしい、短胴長脚の均整のとれた
体格を持つ白面の美青年であったので、西とウラヌスは誠に面白く対照的で
あった。 彼はウラヌスの初印象について「聞きしに勝る大きな逸物なので、
われながらびっくりした。まあ乗ってみろとのことで、早速跨って見ると、これ
はまた駱駝といってもよい位、生まれて始めてあんな大きな馬に乗った」と
いう手紙をよせている。



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by takozchan | 2006-12-14 01:05 | *バロン西
2006.12.12

物心ついた時から、私は馬が好きでした。
芝を蹴って走っていく様は、勇壮で、優美で、神様が与えてくれた
最高に美しい動物・・そんな気がしていました。
それから遥か年を経て、バロン西を知り、日本にこんなに素晴らし
い方がいらしたのだと感動しました。
西夫人と同じ名前というのも何かのご縁でしょうか...

今日から、「西とウラヌス」~西竹一大佐伝~吉橋戒三氏著
より~ウラヌスとの出合い~(抜粋)をお送りします。

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名馬を求めて  ―ウラヌスとの出合い―

第10回「オリンピック大会」に備えて馬術の候補選手が、昭和5年
の3月に決定され、この中に西も含まれていたが、中でも一番若か
った。
国際的な馬術大会で立派な成績を挙げるためには、騎手自身の
練成もさることながら、それ以上に大切なのは名馬をさがし、これを
十分仕込んで人馬一体となることが必要である。世界の強豪と互角
に戦えることを、西は常に念願していた。これがしいては日本の馬術
を認識させるゆえんにもなる。

そのためには、想像以上の年月を必要とされ、従って、このオリン
ピック開催までの2年半も決して長くはなく、まだまだたりない位で
あった。西は「オリンピック競技には、世界的な名騎手、名馬が集ま
るので、習志野乗馬大会とは全然違う。この際是非とも名馬を手に
入れなくてはならない。それに初舞台では気が引けるから、その前
に武者修業の他流試合を十分しておく必要がある」と考えていた。

そのころ西の恩師今村少佐は、馬術研究のため、イタリ―の騎兵
学校に留学していた。
ウラヌスは当時、ローマの騎兵連隊に勤務していたイタリ―のある
騎兵中尉の持馬で、中尉はウラヌスが余りにも大きく、自分では
乗りこなせないので売りたいと漏らしていた。このことを今村が聞き、
ウラヌスを見てこれは面白い馬だし、オリンピックの大障害馬には
もっともふさわしいと見込み、早速西に連絡をしたのである。     
                                          
つづく


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by takozchan | 2006-12-12 00:01 | *バロン西
2006.11.29

小雨ふる九段下の靖国神社へ・・
青山通り~権田原~赤坂御所裏~迎賓館脇を通り抜ける道はいまや
晩秋の美しさと寂しさを映し出していました。
ユンディのショパン・ピアノ協奏曲第1番第2楽章がよく似合う~♪

そして、バロン西が祭られる靖国神社へ。。ここには愛用のムチなど
遺品も大切に納められています。
我がブログ応援団長新井塾第二弟子さんがニコニコお出迎え(^-^)
偕行文庫で、戦史で長くお世話になっている方に、文庫の貴重なご本
をお返しし、パオは今日でこちらは御用納め。
いつもの位置で!!ありがとう。。。

      新井塾第二弟子
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by takozchan | 2006-11-29 07:27 | *バロン西
2006.11.28

"人馬一体"~西とウラヌス
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ウラヌスの老後とその死        「西とウラヌス」より抜粋

西は戦死する少し前に部下のひとりに「俺は今戦車の聯隊長だが、もと
もと騎兵で、最後まで馬を愛するから長靴に拍車をつけて死ぬぞ」といっ
たと聞く。また、夫人の話によれば西は、オリンピックの時に使った長靴
と鞭を硫黄島に携行したそうだが、「ウラヌス」のたてがみもいつも肌身
はなさず持っていたということである。これほどまでに主人に可愛がって
もらった「ウラヌス」も以って瞑すべきであろう。

年老いた愛馬「ウラヌス」もちょうどその頃(昭和20年の春)、東京世田谷
の陸軍獣医学校の病馬厩で激烈な空襲下に老衰のため、西の後を追っ
た。時に26歳。フランス生まれのこの馬は西に買い取られ、西と共に活
躍し、世界に名を成したが、老後は日本でこんなにまで大事にされて寿
命を全うした。考えてみれば実に幸せな馬である。
筆を執っていて私はふと「青い眼をしたお人形は、アメリカ生まれのセル
ロイド、日本の港に着いたとき・・・」の童謡を思い出した。

「ウラヌス」の死後、競馬会でも、あれだけの能力を発揮した馬だから筋肉
か腱か骨格のどこかに特徴があったに違いないと考え、獣医学博士市川
獣医中佐に依頼して解剖した。そして骨を模型にして保存するつもりでこれ
に着手したが、骨をつなぎ合わす銀やクロム線や、骨を煮る石灰が空襲の
激烈な戦時中のためになかなか手に入らない。そこで3年程土の中に埋め
ておけば脂肪も全部とれるというので、獣医学校の防空壕に埋めた。
ところが硫黄島玉砕の悲報が伝わった頃、敵機の直撃弾のためウラヌス
の遺骨もついに四散してしまったという。
以上は後藤斯馬太氏が戦後私に話してくれたことがらである。

ウラヌスの死(後日談)

昭和44年8月、私は防衛大学校の学生と共に福島競馬場の合宿練習
を行った。その時偶然競馬場で小野寺徳氏からウラヌスの最後の模様
を聞いた。大体次の通りである。

「ウラヌス」は獣医学校の病馬厩で老後を養っていたが、松葉農学博士
の意見により再び馬事公苑に移した。小野寺さんは当時の苑長山本寛
少将から毎日30分「ウラヌス」の軽運動を命じられ、日曜もこれを実行
していた。ウラヌスは老衰して歯も殆どなくなり、競争馬用のゴム製の銜
を使っていた。それでも柵に向けると飛ぼうとするファイトを見せたものだ。
苑長からは低障害の飛越を厳禁されていた。偶然西さんが海没した多数
の戦車の補給のため一時帰京した時「ウラヌス」に会いに馬事公苑に来
られた。
そして小野寺さんにせがんで愛馬に跨った。所が西さんは馬場にあった
新馬調教用の低い障害を見て「ちょっと飛ばせて呉れ」と頼まれた。
小野寺さんは「苑長の厳命だから」といって断った。所が間もなく西さんが
硫黄島で戦死されたことを聞き小野寺さんは「こんなことだったらあの時
一度飛ばせてあげるのだった」と後悔しているそうだ。
ウラヌスは老衰のため馬事公苑で死んだ。

以上の話を私はしんみりと承ったが偶然居合せた馬術連盟福島支部の
目黒氏は「ウラヌス」は、2頭分の広さの馬房を与えられていたが、隣の
馬を自分の体で押しつけていたがやはり晩年迄闘志を持っていたようで
す」と付け加えた。
約24年後に福島で西さんとウラヌスの決別や「ウラヌス」の最後の模様を
聞こうとは思いもよらないことであった。     おわり

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。.:・'゜★。。、:。.::。.:・'゜☆

1997年6月の早朝、私は研修で入間基地から自衛隊機C1輸送機
に乗り込み、かつての激戦地硫黄島に向かう。
西大佐の大好きな洋酒をしっかり胸に...

ジェット機で約3時間。大海の中にポッカリ浮かんだこの島を上空から
見た時は思わず目を疑うほど、それは小さな緑の美しい島でした。
C1輸送機から降り立ち、数台のバスに分かれて、戦跡を辿りながら、
島を廻る。1時間で一回りできる広さ。。海岸近くには壊れたトーチカ、
機関銃・・当時の傷跡をそのまま多く残す。

無数に堀りめぐらされた地下壕のひとつに潜り込む。人がようやく入れる
穴から入り、奥へ進むと、かなり深く、ムッと熱気が漂う。立っても頭が
つかない4、5畳の広さの場所が現れ、粗末な机と椅子が置かれていた。
師団司令部室という。一人がカメラを向けたけれど、シャッターがなぜか
ここだけ下りなかった。数日前に遺骨が近くで見つかったばかりだった。

最後に、すっかり晴れ上がった銀明水の海岸~バロン西の最後といわ
れる地に向かう。朝までの雨のため、最後の我々の車だけが運よく海岸
近くまで下りることが出来た。
念願のハウディ・ナポレオンをバロン西の慰霊碑にお供えする。。。合掌


もう一度、バロン西のイキな手紙!!
            (オリンピック前、ヨーロッパ武者修業中)

 「 スイスの競技では、2度勝って評判よくって
                とてももてたよ  アバヨ  竹一 」   




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by takozchan | 2006-11-28 21:25 | *バロン西
2006.11.27

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戦後、再び咲いた花 
  ー西中尉とアメリカ青年ー       「西とウラヌス」より抜粋

ロスアンゼルス大会で、西中尉が馬術練習に励んでいたリベラ・カントリー
クラブで、西中尉に非常に可愛がられた一人のアメリカ青年(当時19才)
がいた。彼の名はサイ・バートレットといい戦時中は空軍将校として従軍し、
日本爆撃の命を受けたが、その時彼は西中尉の祖国を爆撃することに
対して非常に悲しんだ。
たまたま彼の乗機は被弾し、帰途、硫黄島に不時着した。無論西大佐が、
すでにこの島で戦死をしたことを知る由もなかった。そしてあやうく一命を
とりとめたのであった。
戦争が終り、彼は映画界にはいり名の知れたプロデューサーになって、
昭和40年10月に来日した。そして西の消息を探し求めた結果、始めて
ことの仔細を知って、大いになげいたのである。

そこで彼は、11月6日、日本の慣例に従って、靖国神社に西夫人、令息
の列席を得て慰霊祭を行ない、永代祭祀料を奉納したのである。
当日はNHKテレビで放送されたので、ご覧方もあると思う。
靖国神社では外人の主催する祭りは始めてであるとして、とくに奥殿に
椅子を配するという異例の力の入れようであったという。
その時の弔文の邦訳(要旨)は次のとおりである。

 「靖国の杜に眠れるわが偉友 男爵西竹一の霊に捧ぐ」
 
貴方と最初にお会いしたときから34年が経ちました。貴方はオリンピック
の選手としてロスアンゼルスのリベラ・カントリー・クラブへ来られました。
私は馬への共通する愛情を通じ、貴方を知り、貴方は私を弟のように
愛して下さいました。
その愛情を私は生涯を通じて忘れることが出来ません。
貴方に会った人は、ことごとくたちまち貴方の人となりに魅了されました。
それは貴方の若き威厳、ユーモア溢れるセンス、如何なる小さい事象にも
エンジョイし得る偉大な能力の所以でした。
貴方の名はスポーツマンの集いで、運動史上の英雄を語られる場合に、
必ずといってよい程出てくるのです。9万2000の大観衆を起立させ、謙虚
にその栄光を受けられたことは、今だに万人の脳裏に残ってます。
私は、大戦で一空軍大佐として、貴方の祖国と戦う運命となりましたが、
かたときも貴方を忘れず、再び貴方と抱き合うことっも祈っておりました。
それが今では空しくなったことを知り、お互いの運命の皮肉さを呪い、私の
心は痛みます。
私は、私と同様に貴方を崇敬する幾千万のアメリカ人の記憶に永遠に残る
ことを、貴方に報告したいと思います。
ロスアンゼルスに帰りましたら、貴方の友人であったクラブの人びとに今日
の事を報告します。
このお祭りは、私の小さな捧げものに過ぎません。
帰国の上は、友人とはかり、硫黄島に眠る貴方のご遺骨を探し、祖国に
お返しすることに全力を尽すことを誓います。
わが友よ、安らかに眠って下さい。 

   1965年11月6日
                       敬慕をこめて  サイ・バートレット

スポーツが縁で結ばれた国際的友情の美しさ、国際人西大佐の人格、
そして、サイ・バートレット氏のヒューマニティは聞くもうるわしい一編の物語
である。 

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明日は、~嗚呼、硫黄島!!「バロン西」~シリーズ、ラストを迎えます。
「後談ウラヌスの死」・・どうぞお見逃しなくご覧下さいませ。



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by takozchan | 2006-11-27 20:50 | *バロン西