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by takozchan
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カテゴリ:*硫黄島( 3 )

ふたたび、硫黄島!!

2006.12.26

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先日、友人から硫黄島・摺鉢山の写真が送られてきました。
彼女もかつて硫黄島を訪れたお一人で・・・

“添付した写真は、昭和63年4月に硫黄島に行った時に、米軍が上陸
した南海岸から写した摺鉢山です。約20年たった今、島はどうなって
いるでしょう~” 

とありました。私も1997年6月、この摺鉢山の頂上に立ちました。。。 
映画「硫黄島からの手紙」は、今も映画館満杯の様子です。
7月に、調査で硫黄島にいらした方からいただいた「硫黄島の歴史」を
すこし紐解いてみましょう。
この機会に、より硫黄島をお分かりいただくためにもご覧下さい♪

☆★☆
硫黄島の歴史

【沿革】
硫黄島は、1543年(天文12年)スペイン人により発見され、その後、キャ
プテン・クックの部下ゴアが、太平洋探検時(1784年)この島を認め、サ
ルファー・アイランド(硫黄島)と命名している。そして、無住民無所属の島
として放置されていたが、1891年(明治24年)日本領土に編入、硫黄島と
命名し小笠原庁管轄とした。
住民は、1876年(明治9年)には71人が、1943年(昭和18年)には192戸
1,018人がすんでいて、産業としては、初めは漁業が主体であったと思わ
れるが、その後硫黄、燐鉱などの採掘、砂糖きび、薬用植物などが栽培
され、これらを取り扱う会社(硫黄島産業KK)も設立されていた。
本土との交通は、年24回の東京~小笠原諸島間の定期便の一部(6便)
が硫黄島まで伸びていた。

【硫黄島の防備】
1933年(昭和8年)に海軍は、戦闘飛行場(南北800m×200m)を仮設、
以後逐次増強され飛行場は千島飛行場、元山飛行場及び北飛行場が
造られた。
硫黄島攻防戦時には、陸軍約13,700名、海軍約7,500名、計21,200名
の将兵が配備され、全長約18キロメートルに及ぶ地下壕を構築、長期
持久戦の準備が行なわれた。

【硫黄島の攻防戦】
昭和20年2月16日から3日間、米海・空軍による熾烈な艦砲射撃及び豪
雨のような爆撃が加えられ、同2月19日B-29の大編隊による空襲と
硫黄島沖に集結した大艦隊による一斉射撃が全島をおおい、その間
130隻の上陸用舟艇が海岸に向け一斉に突進し、0900ごろその第一波
が南海岸に上陸した。
硫黄島守備隊は、小笠原兵団長栗林中将の指揮の下見事な持久戦を
展開し、米軍上陸部隊に多大な損害を与えたが、そのほとんどは玉砕
し、同3月26日日本軍の組織的な戦闘は終わった。
彼我の損害は次のとおりであった。

 日本軍  戦死 19,900人  戦傷  1,033人(生還者)
 米  軍  戦死   6,821人  戦傷 21,865人

合掌。。。

【硫黄島案内】
位置:八丈島→鳥島→父島→硫黄島
面積:約22平方キロメートル(品川区又は綾瀬市とほぼ同じ)
気象:亜熱帯性気候、平均気温=23.6℃
火山活動:噴気が無数にあり水蒸気爆発が発生する。
隆起現象(年間30cm)地殻変動が著しく断層が存在する。

☆★☆
"海上自衛隊、硫黄島航空基地隊/平成14年12月作成"より一部転載



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by takozchan | 2006-12-26 22:28 | *硫黄島
2006.12.9

ついに、待ち望んでいた「硫黄島からの手紙」を観て来ました。

1997年6月、自衛隊機・C1輸送機から初めて降り立った硫黄島。
今度は、遥かな時空を超え、米軍との死闘真っ只中に放り込まれた・・
そんな武者震いする思いで、最後までスクリーンを見つめ続けました。

☆☆☆
渡辺 健の栗林中将は、スピールバーグ監督がほれ込んだだけあり、
圧倒的な迫力でぐいぐいと、硫黄島の闘いに引っ張り込んでいき、
余りにその存在感の大きさに、ただただ魅了されてしまいました。
また時折見せる優しさ・・これは兵士達に対して、また家族への手紙を
書く時の表情等に現れ、朝枝参謀の栗林中将像が頭をよぎりました。

ところで、気になっていたのは、やはりバロン西!!
かなり昔から、バロン西の映画が出来たら・・と夢みていた私にとって、
誰が演ずるかが一番の問題で、以前TVで、函館戦争の榎本武揚を
演じた姿が衝撃的に心に残り、それ以来注目している伊原剛志が、
颯爽と、人間味豊かにバロン西を演じきっていました。
足の長さ、馬の乗りこなし、そして粋なバロン西が、そのまま伊原に
ダブって見えたほど・・何より嬉しかった!!

悲壮な硫黄島の死闘のなか、西郷を演じる嵐の二宮和也の自然体の
演技、表情が時々その悲壮感から救う。。このパン屋西郷が、突然召集
命令で、妻と生まれ来る子供を残して、硫黄島に連れて来られて以来、
栗林中将に偶然1度、2度、そして3度助けられ、中将に触れていく間に
自分が何を為すべきかと・・変わっていく様が見事に演じられていました。

外にも、素晴らしいキャスト揃いで、中村獅童もすっかり役になり切って
いました。確かに伊藤中尉のような軍人が・・・厳しい軍人教育を受け、
全てに厳格であったにもかかわらず、極限に追い込まれると全く違う行
動をとってしまう・・人間的なもろさがよく出ていました。
☆☆☆

今改めて、戦争というものを考えます。
報復の連鎖・・という言葉があります。やられたらやり返す。またやる。
またやり返す。。。。。
『国を安寧に治めるには武力ではなく“CHARITY”「思いやり」「惻穏」の
心です』 これは、戦後朝枝繁春氏が辻正信氏に同行し、ナセル大統領
に接見した時、大統領のお言葉とお聞きしました。

クリント・イーストウッド監督が、日米両方から見た硫黄島2本の映画を
通じて、世界中の人に伝えたかったものは・・・
硫黄島に訪れた印象は?~という質問に、監督は、「島全体にスピリチュ
アルな風が吹いているようで、ただただ戦争の悲劇に圧倒された・・」と
答えていましたが、私も船見台の崖の上から、ギンネムに広く覆われた
緑の続く先の摺鉢山を見たとき、頬をそよぐ風のなかに多くの英霊の声を
聞いた気がしました。


万感の想いを込めて・・・
栗林中将、西大佐始め、硫黄島で散られた多くの御英霊に、心から
哀悼の気持ちを捧げます・・・合掌。


1997年6月・硫黄島にて・・

  硫黄島にCIから降り立って・・
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  摺鉢山を望む
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  バロン西の碑
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  摺鉢山から
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  船見台から摺鉢山を望む
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  トーチカ
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  司令部地下壕入口、慰霊
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  摺鉢山頂上へ
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by takozchan | 2006-12-10 01:52 | *硫黄島

栗林中将&硫黄島

2006.12.6

  硫黄島にも咲くという"月下美人"
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スピルバーグ監督の映画「硫黄島からの手紙」(日本版)が、いよいよ
今週末に公開されます。今か今かと楽しみにしている一人ですが。。

遥か太平洋に浮ぶ島・・硫黄島!!

1997年、その硫黄島に軍事研修で行くことが決まり、元大本営参謀
の朝枝氏にお話しすると、一枚のコピーを私に渡されました。
それ以前から戦史に携わる方々と、度々元参謀のご自宅に伺っては、
先の大戦の貴重な話を伺っていたのですが、それはまさに「硫黄島の
激戦を偲ぶ」というご自身の回想録でした。

先日、映画の前に・・と資料を引っ張り出して見ました。
実際にその場に居合わせなければ分からない描写がかなりあり、映画
に先駆けて抜粋を少々ご紹介したいと思います。
栗林中将を演ずる渡辺謙さんにも重ね合わせるシーンがいくつか見つかる
かもしれません・・・。

今は亡き元参謀の家の前には、伺うと必ず真っ青な国連の旗が高らかに
掲げられていました。
21世紀は、すべての国境を取り払い、果ては地球そのものを守るために、
この国連の旗一本の下に集まる真のグローバリズムを・・・と熱く語るその
姿は、今も強く脳裏に焼きついています。

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~硫黄島の激戦を偲ぶ~ 抜粋   元大本営作戦参謀朝枝繁春氏   

マッカーサーは百パーセント硫黄島来襲すべし、と判断した大本営陸軍
作戦課長服部大佐は、課員の私に「君、硫黄島を担当してくれ給え。先ず
防備計画を立案してくれ」と命令された。それは19年の春のことだった。
先ず現地偵察の要ありと、作戦課航空斑にいる同期生田中耕二少佐に
飛硫の便を頼んだところ、早速立川発の司偵1機を手配してくれた。
当時は現在のような電波航法施設のない時代で、洋上航法に不馴れな
陸軍航空では容易なことではなく、立川を発ちはしたものの洋上を右往
左往して、燃料切れ寸前にやっと噴煙を探し当て、硫黄島の滑走路に
滑り込んだ。

第2回目は19年7月日に行ったが、今度は海軍部の作戦部に頼んで、
木更津発の中攻に便乗した。一切の発、受信はご法度で、機上の航法
係は十分ごとに天測航法で機の位置を確認しながら飛ぶので、ピタリと
予定時刻に硫黄島に着陸した。
機中には海軍の航空戦隊司令官として赴任する市丸少将も搭乗されて
いた。
市丸閣下はその後在硫黄島海軍部隊の総指揮官として、栗林兵団長と
共に玉砕された。厚く弔魂の誠を捧げます。
さて、硫黄島守備隊は第百九師団を中核とする小笠原兵団で、兵団長
は師団長の栗林中将だった。私は着陸後直に司令部を訪い作戦打合せ
に入った。

硫黄島は活火山だったので、司令部で借りた軍馬に乗り島内を偵察した
際、私の馬が噴出する硫黄の熱泉に脚を突込んで火傷を負う始末だった。
スコールに頼る天水以外には一滴の水もなく、陸海数百万の兵は洗面の
水はおろか、飲料水にも事欠き、飲料水は父島から海軍の高速輸送船で、
敵潜水艦の跳梁する間隙を縫って輸送する有様だった。
飲料水についで困ったのは、構築物用にコンクリートが打てなかったこと
である。海水ではセメントは固まらない。やむなく戦車埋めて砲塔だけ出
して、トーチカ代用とした。市ヶ谷の参謀本部に戻ってこの実情を話すと、
河辺参謀次長は「弾薬を使って島全体を海中に沈めて仕舞え」と御下命
あり、某学者に研究してもらうと、日本全部の爆薬をブチ込んでも不可能
との御託宣だった。

水についで難問題は、ビタミンCだった。島には僅かばかりのパパイヤや
椰子の実のほか、ビタミンCを補給するものは皆無だった。ビタミンC欠乏
症が続出したので、私は関東軍時代の経験から、ハルピンの731部隊が
研究したビタミンC結晶剤を思出し、これが大量空輸を策案した。
米軍は戦爆連合による日本本土爆撃のため、硫黄島に戦闘機基地を設定
しようと、攻略を企図した。そして膨大な鉄量を粟粒のような孤島に投入し
た。近代戦史に類をみない大物量作戦の前に、陸海数万の勇士も為す術
をなく玉砕してしまった。
当時の日本の国力を以ってしては、栗林兵団長の「航空戦力をよこせ」と
いう悲痛な訴えも、「もっと高射砲をよこせ」という第一戦からの要求にも、
応える術はなかった。
元を尋ねれば、対米十五分の一の国力で開戦に踏み切ったツケが、硫黄
島の戦につきつけられたと言えよう。

私は木更津海軍飛行場付近の農家で、現地へのお土産にと夏の茄子、胡
瓜を大籠に一杯買い込み、また四斗樽を探して、之に木更津の井戸水を満
たして、中攻に載せてゆき、野菜は栗林中将に、水は硫黄島海軍飛行場の
居たピストの連中に贈呈しました。
飛行場ではピストの海軍兵曹が『オーイ内地の美味しい生の水が来たぞ、
皆んな、湯呑みを持って来い』と叫ぶや、忽ち延長百米の兵の列が出来ま
した。粟粒のような小さい小さい島の上にです。行列の末端の水兵の向う
には強烈な夏の太陽にクッキリ浮ぶ紺碧の水平線がありました。
僅か湯呑み一杯の井戸水に、水兵達は喚声を挙げて『うまいぞ』と喜んで
呉れました。丁度今と同じ真夏の暑い厚い一日の事でしたが、毎年の夏には
往時のこの光景を想起し、あの井戸水が、末期の甘露水ともなって、硫黄島
に散華された幾多の御英霊の面影が髣髴と、眼前に浮び、感無量で新た涙
に誘われます。

僅か一籠茄子、胡瓜を栗林中将は副官に命じて何百もの小片にナイフできざ
まされて、それを司令部周辺に居合せた兵達に一片づつ分けられました。
『貴重な本土の生野菜だぞ』とおっしゃられましたが、このささやかな一片の
生野菜の端くれを口にした兵達も、皆玉砕されましたね。栗林中将は一片の
その茄子、胡瓜も自らの口には入れられませんでした。それは私が目撃した
栗林兵団司令部のテントの中の一齣の光景でした。
栗林閣下は極限の緊張下にあっても人間味豊かな部下に対する自愛溢れる
将軍でした。

栗林中将は『アメリカ人を甘く見てはいかんぞ。野球でもアメリカ人は最初
勝つとトコトン迄実力以上に強くなる。対米戦法は初動が大事だ。最初必要と
思われる以上の兵力戦力を準備して、初動でぶっ叩くことだよ。これに誤って
初動に於てアメリカに勝利感を持たすと、後は手に負えなくなるぞ。大本営は
此の点を良く認識して作戦指導をやるべきだよ。特に硫黄島では航空の力が
たらん、思い切って航空戦力を増強する様に、君帰ったら処理してくれよ』と、
私に御注意下さった。
栗林将軍は、ワシントンで駐在武官の御経験もあり、その御訓言は正に至言
でした。



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by takozchan | 2006-12-07 00:00 | *硫黄島