光の旅人K-PAXから愛をこめて♪


by takozchan
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<   2006年 11月 ( 35 )   > この月の画像一覧

2006.11.30

  御 礼

11月1日にブログをスタートして、早1ヶ月!!
始める寸前、1週間で書くことがなくなるのではと真剣に考えました。
でも、今だから出来る!!と考え直し、思い切ってスタート!!
ところが、始まってみると毎日が楽しく、アッという間の1ヶ月でした。

。.:・'゜★。。、:。.::。.:・'゜☆
最初、全く初歩的なことが分からず、多分しょうがないな~と思いつつも
何度も親切に教えて下さり、この道を開いていただいた、ブログの先輩
あじっこ師匠♪
毎日のように、アチョーと元気で、嬉しい、コメント・エールを送って下さる
新井塾第二弟子さん♪
全国桂馬の如く飛んでいらっしゃる、馬関係者ナイスミドルの桂馬さん♪
熊の出没する里山住人、究極の写真家、ararinneさん♪
色々調べては、早速教えて下さる、気の優しい、sekinesさん♪
そして周りのみんなみんな・・・応援ありがとうございます\(^▽^)/

。.:・'゜★。。、:。.::。.:・'゜☆
本当に、朝早くから、夜中の12時過ぎまで、多くの方々にご覧いただき、
今更ながら、皆さまのお支えあってこそ、ここまでこられたと心から感謝
申上げております。
これからも、楽しく、日々折々感じたことを、そのまま皆さまにお伝えして
参ります。お恥ずかしく、大変稚拙なブログですが、懲りずにご覧いただ
ければ嬉しいです。ヨロシク~♪

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          今は亡きeizchan作・・夢みるtakochan


コメントはチョット・・とおっしゃる方は、しばらくの間、E-メールをお受け
します。ご意見、ご感想等これからのブログに生かしていきたいと思い
ます。宜しくお願いいたします。 
eizchan@agate.plala.or.jp



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by takozchan | 2006-11-30 20:59 | *メッセージetc.
2006.11.29

ようやくデジカメから取り出しました。
去る10月29日・観艦式の一部です。少しでも臨場感を味わって
いただければと思います。 (クリックしてご覧下さい)

横浜港から護衛艦「さわぎり」に乗船
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一路相模湾へ「ちょうかい」「ひえい」「さわぎり」
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イージス艦「ちょうかい」
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観閲
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レインボーブリッジの下をくぐって帰港
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by takozchan | 2006-11-29 22:08 | *観艦式・観閲式
2006.11.29

小雨ふる九段下の靖国神社へ・・
青山通り~権田原~赤坂御所裏~迎賓館脇を通り抜ける道はいまや
晩秋の美しさと寂しさを映し出していました。
ユンディのショパン・ピアノ協奏曲第1番第2楽章がよく似合う~♪

そして、バロン西が祭られる靖国神社へ。。ここには愛用のムチなど
遺品も大切に納められています。
我がブログ応援団長新井塾第二弟子さんがニコニコお出迎え(^-^)
偕行文庫で、戦史で長くお世話になっている方に、文庫の貴重なご本
をお返しし、パオは今日でこちらは御用納め。
いつもの位置で!!ありがとう。。。

      新井塾第二弟子
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      tacoro
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by takozchan | 2006-11-29 07:27 | *バロン西
2006.11.28

"人馬一体"~西とウラヌス
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ウラヌスの老後とその死        「西とウラヌス」より抜粋

西は戦死する少し前に部下のひとりに「俺は今戦車の聯隊長だが、もと
もと騎兵で、最後まで馬を愛するから長靴に拍車をつけて死ぬぞ」といっ
たと聞く。また、夫人の話によれば西は、オリンピックの時に使った長靴
と鞭を硫黄島に携行したそうだが、「ウラヌス」のたてがみもいつも肌身
はなさず持っていたということである。これほどまでに主人に可愛がって
もらった「ウラヌス」も以って瞑すべきであろう。

年老いた愛馬「ウラヌス」もちょうどその頃(昭和20年の春)、東京世田谷
の陸軍獣医学校の病馬厩で激烈な空襲下に老衰のため、西の後を追っ
た。時に26歳。フランス生まれのこの馬は西に買い取られ、西と共に活
躍し、世界に名を成したが、老後は日本でこんなにまで大事にされて寿
命を全うした。考えてみれば実に幸せな馬である。
筆を執っていて私はふと「青い眼をしたお人形は、アメリカ生まれのセル
ロイド、日本の港に着いたとき・・・」の童謡を思い出した。

「ウラヌス」の死後、競馬会でも、あれだけの能力を発揮した馬だから筋肉
か腱か骨格のどこかに特徴があったに違いないと考え、獣医学博士市川
獣医中佐に依頼して解剖した。そして骨を模型にして保存するつもりでこれ
に着手したが、骨をつなぎ合わす銀やクロム線や、骨を煮る石灰が空襲の
激烈な戦時中のためになかなか手に入らない。そこで3年程土の中に埋め
ておけば脂肪も全部とれるというので、獣医学校の防空壕に埋めた。
ところが硫黄島玉砕の悲報が伝わった頃、敵機の直撃弾のためウラヌス
の遺骨もついに四散してしまったという。
以上は後藤斯馬太氏が戦後私に話してくれたことがらである。

ウラヌスの死(後日談)

昭和44年8月、私は防衛大学校の学生と共に福島競馬場の合宿練習
を行った。その時偶然競馬場で小野寺徳氏からウラヌスの最後の模様
を聞いた。大体次の通りである。

「ウラヌス」は獣医学校の病馬厩で老後を養っていたが、松葉農学博士
の意見により再び馬事公苑に移した。小野寺さんは当時の苑長山本寛
少将から毎日30分「ウラヌス」の軽運動を命じられ、日曜もこれを実行
していた。ウラヌスは老衰して歯も殆どなくなり、競争馬用のゴム製の銜
を使っていた。それでも柵に向けると飛ぼうとするファイトを見せたものだ。
苑長からは低障害の飛越を厳禁されていた。偶然西さんが海没した多数
の戦車の補給のため一時帰京した時「ウラヌス」に会いに馬事公苑に来
られた。
そして小野寺さんにせがんで愛馬に跨った。所が西さんは馬場にあった
新馬調教用の低い障害を見て「ちょっと飛ばせて呉れ」と頼まれた。
小野寺さんは「苑長の厳命だから」といって断った。所が間もなく西さんが
硫黄島で戦死されたことを聞き小野寺さんは「こんなことだったらあの時
一度飛ばせてあげるのだった」と後悔しているそうだ。
ウラヌスは老衰のため馬事公苑で死んだ。

以上の話を私はしんみりと承ったが偶然居合せた馬術連盟福島支部の
目黒氏は「ウラヌス」は、2頭分の広さの馬房を与えられていたが、隣の
馬を自分の体で押しつけていたがやはり晩年迄闘志を持っていたようで
す」と付け加えた。
約24年後に福島で西さんとウラヌスの決別や「ウラヌス」の最後の模様を
聞こうとは思いもよらないことであった。     おわり

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。.:・'゜★。。、:。.::。.:・'゜☆

1997年6月の早朝、私は研修で入間基地から自衛隊機C1輸送機
に乗り込み、かつての激戦地硫黄島に向かう。
西大佐の大好きな洋酒をしっかり胸に...

ジェット機で約3時間。大海の中にポッカリ浮かんだこの島を上空から
見た時は思わず目を疑うほど、それは小さな緑の美しい島でした。
C1輸送機から降り立ち、数台のバスに分かれて、戦跡を辿りながら、
島を廻る。1時間で一回りできる広さ。。海岸近くには壊れたトーチカ、
機関銃・・当時の傷跡をそのまま多く残す。

無数に堀りめぐらされた地下壕のひとつに潜り込む。人がようやく入れる
穴から入り、奥へ進むと、かなり深く、ムッと熱気が漂う。立っても頭が
つかない4、5畳の広さの場所が現れ、粗末な机と椅子が置かれていた。
師団司令部室という。一人がカメラを向けたけれど、シャッターがなぜか
ここだけ下りなかった。数日前に遺骨が近くで見つかったばかりだった。

最後に、すっかり晴れ上がった銀明水の海岸~バロン西の最後といわ
れる地に向かう。朝までの雨のため、最後の我々の車だけが運よく海岸
近くまで下りることが出来た。
念願のハウディ・ナポレオンをバロン西の慰霊碑にお供えする。。。合掌


もう一度、バロン西のイキな手紙!!
            (オリンピック前、ヨーロッパ武者修業中)

 「 スイスの競技では、2度勝って評判よくって
                とてももてたよ  アバヨ  竹一 」   




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by takozchan | 2006-11-28 21:25 | *バロン西

嗚呼、硫黄島 ~幕間~

2005.11.27

     雨のけやき通り

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    今年も六本木ヒルズけやき通りは、青色ダイオードと白色の
    イルミネーションで、やはりクリスマス模様~



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by takozchan | 2006-11-27 21:25 | *ぴーちゃん・イヌ次郎
2006.11.27

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戦後、再び咲いた花 
  ー西中尉とアメリカ青年ー       「西とウラヌス」より抜粋

ロスアンゼルス大会で、西中尉が馬術練習に励んでいたリベラ・カントリー
クラブで、西中尉に非常に可愛がられた一人のアメリカ青年(当時19才)
がいた。彼の名はサイ・バートレットといい戦時中は空軍将校として従軍し、
日本爆撃の命を受けたが、その時彼は西中尉の祖国を爆撃することに
対して非常に悲しんだ。
たまたま彼の乗機は被弾し、帰途、硫黄島に不時着した。無論西大佐が、
すでにこの島で戦死をしたことを知る由もなかった。そしてあやうく一命を
とりとめたのであった。
戦争が終り、彼は映画界にはいり名の知れたプロデューサーになって、
昭和40年10月に来日した。そして西の消息を探し求めた結果、始めて
ことの仔細を知って、大いになげいたのである。

そこで彼は、11月6日、日本の慣例に従って、靖国神社に西夫人、令息
の列席を得て慰霊祭を行ない、永代祭祀料を奉納したのである。
当日はNHKテレビで放送されたので、ご覧方もあると思う。
靖国神社では外人の主催する祭りは始めてであるとして、とくに奥殿に
椅子を配するという異例の力の入れようであったという。
その時の弔文の邦訳(要旨)は次のとおりである。

 「靖国の杜に眠れるわが偉友 男爵西竹一の霊に捧ぐ」
 
貴方と最初にお会いしたときから34年が経ちました。貴方はオリンピック
の選手としてロスアンゼルスのリベラ・カントリー・クラブへ来られました。
私は馬への共通する愛情を通じ、貴方を知り、貴方は私を弟のように
愛して下さいました。
その愛情を私は生涯を通じて忘れることが出来ません。
貴方に会った人は、ことごとくたちまち貴方の人となりに魅了されました。
それは貴方の若き威厳、ユーモア溢れるセンス、如何なる小さい事象にも
エンジョイし得る偉大な能力の所以でした。
貴方の名はスポーツマンの集いで、運動史上の英雄を語られる場合に、
必ずといってよい程出てくるのです。9万2000の大観衆を起立させ、謙虚
にその栄光を受けられたことは、今だに万人の脳裏に残ってます。
私は、大戦で一空軍大佐として、貴方の祖国と戦う運命となりましたが、
かたときも貴方を忘れず、再び貴方と抱き合うことっも祈っておりました。
それが今では空しくなったことを知り、お互いの運命の皮肉さを呪い、私の
心は痛みます。
私は、私と同様に貴方を崇敬する幾千万のアメリカ人の記憶に永遠に残る
ことを、貴方に報告したいと思います。
ロスアンゼルスに帰りましたら、貴方の友人であったクラブの人びとに今日
の事を報告します。
このお祭りは、私の小さな捧げものに過ぎません。
帰国の上は、友人とはかり、硫黄島に眠る貴方のご遺骨を探し、祖国に
お返しすることに全力を尽すことを誓います。
わが友よ、安らかに眠って下さい。 

   1965年11月6日
                       敬慕をこめて  サイ・バートレット

スポーツが縁で結ばれた国際的友情の美しさ、国際人西大佐の人格、
そして、サイ・バートレット氏のヒューマニティは聞くもうるわしい一編の物語
である。 

************************************************
明日は、~嗚呼、硫黄島!!「バロン西」~シリーズ、ラストを迎えます。
「後談ウラヌスの死」・・どうぞお見逃しなくご覧下さいませ。



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by takozchan | 2006-11-27 20:50 | *バロン西

嗚呼、硫黄島 ~幕間~

2006.11.26

我が家の3羽のピーちゃん!!!
ウサギも1羽って数えるの、ご存知でした?
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by takozchan | 2006-11-26 13:53 | *ぴーちゃん・イヌ次郎
2006.11.26

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硫黄島の死闘(2)            「西とウラヌス」より抜粋

26日夕までに元山飛行場を喪失し、27日も引続き彼、我の激闘が繰り返さ
れた。西戦車聯隊は戦死傷者続出、火砲戦車等の被害が増加し弾薬、糧食
も埋没等のため、逐次欠乏して苦戦に陥った。その第1中隊長(鈴木利生大
尉)等は米軍1ヶ大隊と二段岩山頂で激しい白兵戦を交えた。28日、西地区
隊配属の西戦車聯隊の第2中隊長(斉藤矩夫大尉)は、同胞兵1個小隊と共
に米軍に多大の損害を与えたが、わが方も中戦車4両を全部破壊され、搭乗
員は手榴弾をもって応戦した。
元山飛行場正面で戦闘中の第3中隊長(栗林功大尉)は28日午前中総突撃
を敢行し、また第1中隊は、2両1組の突撃隊戦法をもって米軍と白兵戦を、
交え、これに多大の損害を与えた。
同日夕までにおける西戦車聯隊の損害は、中戦車2、軽戦車8、戦死死傷等
約80名に達した。

3月1日、米軍は約45分にわたる猛烈な艦砲、銃爆撃、砲兵の射撃の後攻
撃を再興した。二段岩付近にあった鈴木戦車中隊は進出した米軍に向って
突撃を敢行、同聯隊歩兵中隊、整備中隊も敵中に突入、また工兵小隊は対
戦車肉迫攻撃を反復して、各所に近接戦斗を惹起した。戦車第3中隊は、
昨日来の戦斗で多数の戦死者を出した。行動不能となった戦車は土壌でお
おいかくし、戦車砲、搭載機関銃等をもって応戦した。 
兵団命令により、万部落にあった西戦車隊長は、東山地区複郭陣地確保の
ため、万部落付近に同隊残存兵力の集結を命じた。

3月6日、米軍は約3個師団をもって攻撃を再興した。
西戦車隊はこれを迎え撃ったが、既に戦車戦力を失い、主として徒歩戦斗に
より頑強に抵抗を続けていた。西隊長の居た万部落付近は彼我混戦乱斗状
態となったが、西隊はよく地下壕を死守し北飛行場にも艇進反撃を加えるな
ど米軍に多大の損害を与え、その地歩の拡大を阻止した。
栗林兵団長はこの西戦車聯隊の勇戦戦闘に対し、感状を授与した。これは
戦場における部隊としての最高の栄誉であり、西部隊の偉大な功績は説明
を要しないと思う。特に西聯隊長以下の任務遂行の強い責任感、あらゆる
困難にも屈しない闘魂に接するとき、私は筆を執りつつ覚えず襟を正さずに
は居られない。

西聯隊長の最期
 
陸上自衛隊幹部学校の佐々木戦史室長は次のように発表している。
「硫黄島の戦斗は、太平洋で米軍が最も苦しんだ戦斗の一つであった。
日本軍の戦死傷19,450名(うち戦死18,500名)に対し、米軍が払った犠
牲は実に24,750名(うち戦死5,500名)で実にサイパン、グアムに比して
2倍の損害を与え、持久日数は約2倍~3倍に達したのである。」
とまれ栗林兵団長以下各部長及将兵の闘魂,国土防衛に対する生命をか
けての責任感には頭の下がるものがある。以下西部隊の生還者某氏から
聞いたままを基にして、西部隊長の最期の模様を偲ぶこととしよう。

アメリカ軍の上陸後一週間で戦車2ヶ中隊は全滅し、更に3月上旬には残り
の1ヶ中隊も玉砕した。西は部下各中隊の全滅するまで、毎晩第一線に行っ
て激励していた。寝台の下に大事に保存していた、何よりも好きなウイスキー
を一本、一本提げて行っては、部下をねぎらっていた。戦車が全滅する頃に
は、ウイスキーもなくなっていた。
アメリカ軍の飛行機は毎日頭上を乱舞するが、日の丸のマークをつけた飛行
機は1機も仰ぎ見ることができない。
誰いうとなく「3月一杯頑張れば、日本の連合艦隊が繰り出して戦勢をひっく
り返して呉れる」との噂が口から口へ伝わり、一同は石にかじりついても、と
頑張った。毎日夕方になると「あーあ、俺は今日も一日生き延びたんだなぁ」
と我と我が心につぶやいた。翌くる日の午前4時頃になると、早くも万雷の
とどろくような艦砲射撃が始まる。これがこの頃の日課であった。

包囲はひしひしとつまって、完全な4周包囲の形となり(註:硫黄島の面積は
ほぼ新宿区の広さ)近接戦闘が毎日繰返された。この間、西の最愛の部下
は、一人減り、二人死んで行った。部下の命を預かる西部隊長は濃くもない
口ひげが無精にのびて、背中の骨が一つ一つ数えられる程やつれて行った。
部下は隊長の健康を心配して布団をすすめたが、西はこれをしりぞけて、兵
と同じすり切れた毛布一枚に痩せた身をくるんでいた。
或る日、逃げ遅れた一人のアメリカ兵が火炎放射器でやたらに西部隊の兵
にいどみかかって来た。射たれて傷ついたこのアメリカ兵は、西部隊長の前
につれてこられ、俘虜としての尋問が始まった。若いアメリカ兵の懐から出た
一通の手紙、それは母親から戦地の彼に宛てたもので、「早く帰って来なさ
い。母はそればかりを待っています。」と書かれてあった。西はこれを見て
「どこの国でも人情にかわりはないなぁ」と何時にもない悲しい表情をした。
そして乏しい中から手持の薬を与えて、手厚く看護してやったが、彼はその
翌くる日、西に感謝しながら最後の息を引き取った。

またある時はアメリカ側から拡声器で呼びかけてきた。
「オリンピックの英雄、バロン西、君は立派に軍人としての責任を果したの
だ。ここで君を失うことは惜しい。こちらに来なさい。われわれは君を手厚く
取扱うであろう」とすすめたが、西はもちろん一言も答えなかった。この頃、
部隊長は、壕の中でいつもきたない籐椅子に倚りかかり豆らんぷをつけて
部下の報告を聞いていた。粗末な木机の上に拡げた地図には部隊の配置
が描いてあったが、この部隊符号が報告の度に、西の持つ鉛筆で一つ一つ
抹殺されていった。猛烈な砲爆撃下に、にこにこしている部隊長の落着いた
笑顔を見ると、部下たちはたまらない懐しさを覚えた。西はその後、海軍から
貰った取って置きのウイスキーを報告に来る部下たちに少しづつ与えた。
酒飲みの彼はそれだけに察しがあり、部下も隊長の情に感激していた。

戦況は日一日とせっ迫し、3月17日には内地との通信が途絶した。
後で遺族に届いた公報には、西がこの日に戦死したことになっているが、
事実は翌18日に西部隊手持の小さい無線機で父島に向けて、西部隊玉砕
という最後の電報を打った。そして西は、その夜12時を期し、残兵約60名を
かき集めて壕から出撃する覚悟を決めた。
戦車を基幹として歩、砲工各兵種を付属させた総員約1000名もあった西部
隊が、約一ヶ月にわたる激戦の後、動けるものはたった60名ばかりになって
しまったのだ。西はついて行けない負傷兵めいめいの枕元に、2日分の食糧
を置いてやった。そして一人一人にやさしく別れを告げていた。
多数の部下を殺し、或は傷つけた西は、一日生きのびることが一思いに死ぬ
よりも、はるかに苦しかった。しかし、彼はその苦しさに堪えて、部隊長として
の最後の責任を果そうとしていた。かれこれするうちに時間も過ぎて、翌19
日午前2時頃、西部隊は西海岸の銀明水付近を目標として出撃した。19日
の夜と20日、銀明水の壕で頑張った。壕の中で西は煙草をくゆらしながら、
沈思黙考していた。隊長の泰然たる態度を仰ぎ見た残り少ない部下たちは、
心強くもあり、叉気高くも感ぜられた。

20日の夜、西は残兵を提げて、食糧や弾丸を補充する為、今一度前にいた
部隊本部の壕に引返した。その壕は地下3階までの設備があった。壕に着
いて間もなく、21日の明け方に猛烈な攻撃を受け、地下1階、2階に臥てい
た負傷兵は、火炎放射器で見る見るうちに黒焦げになって了った。若い将兵
の中には精神が錯乱してさわぎ廻るもの、沈んでしまうもの等色々で、西は
その統御に骨身をけづった。しかし一度命令が下ると彼等は兎に角実行し
た。地下2階の壕で指揮を取っていた西も、半面やけどをして繃帯を巻き、
半面は砂塵で失明してしまった。彼は万策尽きて21日夜、再び銀明水まで
出撃した。目標に到達した頃は、本当の闇夜だった。この明け方、うす暗い
中で、静かに水で身を清めている部隊長の姿を見たというものもあった。
愈々死を覚悟した西は、戦況報告書類と部隊長章のついた軍服と軍刀とを
まとめ、部下のある将校に持たせ、東山の陣地を守備していた次級者鈴木
少佐のもとに届けさせた。

3月22日、朝早くから西部隊最後の戦闘が始まった。出撃に当って一同は
乏しくなった糧食を携帯した。「部隊長の分は私が持ちます」申し出た部下
の言葉をさえぎって、西は「こういう非常の時には部隊長も兵も一緒だ」と自ら
骨々した背中に糧食を背負い、9時半か10時頃、副官松山少佐と軍医見習
士官以下をつれて出撃した。 西の戦死の実相については色々な説がある
が、戦後夫人が生還者7、8人から聞いた所を綜合すると、東海岸近くの水
際で戦斗中、戦死したことが略々確実のようである。西の遺骸は敵に発見
されないため、部下の手で砂地を掘って葬られた。部隊長章のついた軍服を
着なかったことは部隊長戦死の情報を与えまいとする西の深慮からであった
のだ。栗林兵団長は3月25日夜、総攻撃を行ない、壮烈な戦死を遂げられ
た。かくして硫黄島に於ける組織的抵抗は終った。  

西部隊の生還者某氏は、隊長始め戦友を硫黄島に残して日本の土を踏んだ
ことを申し訳なく思い、男泣きに泣きながら、以上の実相を西夫人に報告し
た。夫人は「生死は運です。あなたがたが帰って来られたからこそ、西部隊
の最後の模様が明らかとなったので、部隊のご遺族もさぞ喜ばれることで
しょう」とやさしく慰めるのであった。 硫黄島の露と消えた西は齢42、彼は
少年時代から一筋に進んで来た軍人としての使命を部下と共に立派に果し、
充実した男らしい生涯を終った。
西夫人は最近、「主人の遺骨は23年の歳月を経た今日、恐らく風化して、
遺族の許に戻ることは永久にないと思います。主人が生前“俺が死ぬときは
宇宙の中に消えて行くのだ”と語った言葉が思い出されます」と話されたが
胸のつまる思いがする。      つづく


★☆時折こみ上げる涙をこらえながら入力しました。長文をご覧いただき
ありがとうございました★☆
明日は「戦後、再び咲いた花~西中尉とアメリカ青年~」をお送り致します。
お楽しみに!!




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by takozchan | 2006-11-26 13:06 | *バロン西

嗚呼、硫黄島 ~幕間~

2006.11.25


真っ青な空の中の東京タワー
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シャボテンマンション
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HIROO GARDEN (from PAO)
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拝啓、サンタさん!
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by takozchan | 2006-11-25 14:27 | *風景・風物
2006.11.25

*******
今日から硫黄島の死闘、そして西連隊長の最後他を、3日間に渡りお送り
します。

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硫黄島の死闘(1)        「西とウラヌス」より抜粋

9月19日、各部隊に示された「小笠原兵団硫黄島戦闘計画」によれば、
戦車第26連隊は、師団直轄部隊となっている。編制は本部、第1、第2、
第3中隊、歩兵中隊、工兵小隊、整備中隊から成っている。
そして「戦車ハ戦斗初期、戦力温存ニ努メ主トシテ主陣地付近ノ戦斗ニ
協力ス 叉一部ヲ以テ東及北地区正面ノ逆襲支援に使用ス」と云う方針
の下に聯隊の任務が次のように示されている。(細部省略)

  8.戦車第26聯隊
    戦闘初期之ヲ控置レ戦機に投ジ、適時重点方面ニ使用ス
    1. 一部ヲ以テ主陣地前及陣内ノ対戦車戦斗ニ任ズ
    2. 主力ヲ以テ逆襲支援ニ任ジ叉陣内ニ侵入スル敵ヲ撃破ス
    3. 各々一部ヲ以テ対上陸戦斗ニ協力ス

かくて各部隊は鋭意防備を強化し、洞窟式交通路も構築し、日夜訓練に
励んでいた。翌昭和20年2月10日から西戦車聯隊は第一線に出動し、
万部落付近に本部を置いて主陣地の戦斗に任じていた。西は部下部隊
の陣地をよく見廻った。そして酒や煙草を少しづつ配り、冗談まじりの話
をして行くのが常であった。硫黄島に対する米空軍の空襲は一月中には
延、昼間約700機、夜間約180機に及んだ。2月に入ると連日延、20-
30機となり、ナバーム弾も使うようになった。
2月11日の紀元節には各人に珍しく缶詰2、3個が配給され恩賜の酒を
酌み交わした。

昭和20年の2月16日にアメリカ軍の機動部隊から発した延約1000機
の艦載機は関東地方一帯を襲った。この朝、アメリカの機動部隊は硫黄
島海域に進出して同島を包囲し、砲爆撃を実施し、硫黄島攻略の企画は
段々明らかになってきた。その後、硫黄島に対する砲爆撃は熾烈を極め、
同島の草木は裸となり、地形の様相は一変した。

19日朝8時頃、アメリカ軍は上陸用舟艇を以て俄然上陸を始めた。
東海岸の近くの望楼にいた西部隊長の望遠鏡には、隙間のないばかりに
接岸した舟艇が映じた。部下の将兵は申し合わせたように振向いて、隊長
の顔色を見守った。西は明るい面持で「敵さん、いよいよおいでなさったな、
皆んなしっかりやろうなぁ」と静かにいった。沈み勝ちだった将兵は、隊長
のこの一言を聞いた途端に、何時もの明朗さを取戻した。20日早朝来、
兵力約2万と判断される米軍は、主力を以て元山台地に対する攻撃を始め
た。兵団長は、西部隊に南地区への出動を命じた。

22日には、夫人のもとに、西の最後の手紙が届いた。それは2月4日付で
「毎日空襲下に壕生活を続けている。先日、演習中に戦車から首を出した
ところ、電話線に引っかかって骨を痛めた。部下には黙っているから、誰も
知らぬ。しかしこの頃は、夜も眠られない位痛いのだ。何か適当な薬があっ
たら送って呉れ」と書いてあった。夫人は、薬を準備して木更津を発航する
海軍の飛行機に頼もうとしたが、一足違いで間に合わなかった。惜しくもそ
の飛行機を最後として、戦況は硫黄島との飛行機連絡を絶ってしまった。

その頃、硫黄島は空・海・陸から猛烈な攻撃を受け、島の形が改まる程の
惨状が刻々、ラジオや新聞で内地に伝えられた。西が部隊長として働いて
いることも、一部の新聞に報道された。
夫人や御子さん達は、しめつけられるような気持で、日々の情報に注意して
いたが、若しや日本軍とっておきの新兵器が飛出して戦勢を挽回するので
はあるまいかとの淡い望も抱いていた。
しかし、攻撃の手は容赦なくきびしくなってきた。米軍の元山飛行場進出に
伴い、西聯隊長は第3中隊(西部隊>を同飛行機第1・第3滑走路正面に
突入した。26日も米軍は熾烈な砲爆撃支援のもとに、約3ヶ師団を並列して
前面的攻撃を再興した。    つづく




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by takozchan | 2006-11-25 09:14 | *バロン西