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光の旅人K-PAXから愛をこめて♪


by takozchan
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嗚呼、硫黄島!! 「バロン西」その4

2006.11.26

嗚呼、硫黄島!! 「バロン西」その4_e0099756_11222188.jpg

硫黄島の死闘(2)            「西とウラヌス」より抜粋

26日夕までに元山飛行場を喪失し、27日も引続き彼、我の激闘が繰り返さ
れた。西戦車聯隊は戦死傷者続出、火砲戦車等の被害が増加し弾薬、糧食
も埋没等のため、逐次欠乏して苦戦に陥った。その第1中隊長(鈴木利生大
尉)等は米軍1ヶ大隊と二段岩山頂で激しい白兵戦を交えた。28日、西地区
隊配属の西戦車聯隊の第2中隊長(斉藤矩夫大尉)は、同胞兵1個小隊と共
に米軍に多大の損害を与えたが、わが方も中戦車4両を全部破壊され、搭乗
員は手榴弾をもって応戦した。
元山飛行場正面で戦闘中の第3中隊長(栗林功大尉)は28日午前中総突撃
を敢行し、また第1中隊は、2両1組の突撃隊戦法をもって米軍と白兵戦を、
交え、これに多大の損害を与えた。
同日夕までにおける西戦車聯隊の損害は、中戦車2、軽戦車8、戦死死傷等
約80名に達した。

3月1日、米軍は約45分にわたる猛烈な艦砲、銃爆撃、砲兵の射撃の後攻
撃を再興した。二段岩付近にあった鈴木戦車中隊は進出した米軍に向って
突撃を敢行、同聯隊歩兵中隊、整備中隊も敵中に突入、また工兵小隊は対
戦車肉迫攻撃を反復して、各所に近接戦斗を惹起した。戦車第3中隊は、
昨日来の戦斗で多数の戦死者を出した。行動不能となった戦車は土壌でお
おいかくし、戦車砲、搭載機関銃等をもって応戦した。 
兵団命令により、万部落にあった西戦車隊長は、東山地区複郭陣地確保の
ため、万部落付近に同隊残存兵力の集結を命じた。

3月6日、米軍は約3個師団をもって攻撃を再興した。
西戦車隊はこれを迎え撃ったが、既に戦車戦力を失い、主として徒歩戦斗に
より頑強に抵抗を続けていた。西隊長の居た万部落付近は彼我混戦乱斗状
態となったが、西隊はよく地下壕を死守し北飛行場にも艇進反撃を加えるな
ど米軍に多大の損害を与え、その地歩の拡大を阻止した。
栗林兵団長はこの西戦車聯隊の勇戦戦闘に対し、感状を授与した。これは
戦場における部隊としての最高の栄誉であり、西部隊の偉大な功績は説明
を要しないと思う。特に西聯隊長以下の任務遂行の強い責任感、あらゆる
困難にも屈しない闘魂に接するとき、私は筆を執りつつ覚えず襟を正さずに
は居られない。

西聯隊長の最期
 
陸上自衛隊幹部学校の佐々木戦史室長は次のように発表している。
「硫黄島の戦斗は、太平洋で米軍が最も苦しんだ戦斗の一つであった。
日本軍の戦死傷19,450名(うち戦死18,500名)に対し、米軍が払った犠
牲は実に24,750名(うち戦死5,500名)で実にサイパン、グアムに比して
2倍の損害を与え、持久日数は約2倍~3倍に達したのである。」
とまれ栗林兵団長以下各部長及将兵の闘魂,国土防衛に対する生命をか
けての責任感には頭の下がるものがある。以下西部隊の生還者某氏から
聞いたままを基にして、西部隊長の最期の模様を偲ぶこととしよう。

アメリカ軍の上陸後一週間で戦車2ヶ中隊は全滅し、更に3月上旬には残り
の1ヶ中隊も玉砕した。西は部下各中隊の全滅するまで、毎晩第一線に行っ
て激励していた。寝台の下に大事に保存していた、何よりも好きなウイスキー
を一本、一本提げて行っては、部下をねぎらっていた。戦車が全滅する頃に
は、ウイスキーもなくなっていた。
アメリカ軍の飛行機は毎日頭上を乱舞するが、日の丸のマークをつけた飛行
機は1機も仰ぎ見ることができない。
誰いうとなく「3月一杯頑張れば、日本の連合艦隊が繰り出して戦勢をひっく
り返して呉れる」との噂が口から口へ伝わり、一同は石にかじりついても、と
頑張った。毎日夕方になると「あーあ、俺は今日も一日生き延びたんだなぁ」
と我と我が心につぶやいた。翌くる日の午前4時頃になると、早くも万雷の
とどろくような艦砲射撃が始まる。これがこの頃の日課であった。

包囲はひしひしとつまって、完全な4周包囲の形となり(註:硫黄島の面積は
ほぼ新宿区の広さ)近接戦闘が毎日繰返された。この間、西の最愛の部下
は、一人減り、二人死んで行った。部下の命を預かる西部隊長は濃くもない
口ひげが無精にのびて、背中の骨が一つ一つ数えられる程やつれて行った。
部下は隊長の健康を心配して布団をすすめたが、西はこれをしりぞけて、兵
と同じすり切れた毛布一枚に痩せた身をくるんでいた。
或る日、逃げ遅れた一人のアメリカ兵が火炎放射器でやたらに西部隊の兵
にいどみかかって来た。射たれて傷ついたこのアメリカ兵は、西部隊長の前
につれてこられ、俘虜としての尋問が始まった。若いアメリカ兵の懐から出た
一通の手紙、それは母親から戦地の彼に宛てたもので、「早く帰って来なさ
い。母はそればかりを待っています。」と書かれてあった。西はこれを見て
「どこの国でも人情にかわりはないなぁ」と何時にもない悲しい表情をした。
そして乏しい中から手持の薬を与えて、手厚く看護してやったが、彼はその
翌くる日、西に感謝しながら最後の息を引き取った。

またある時はアメリカ側から拡声器で呼びかけてきた。
「オリンピックの英雄、バロン西、君は立派に軍人としての責任を果したの
だ。ここで君を失うことは惜しい。こちらに来なさい。われわれは君を手厚く
取扱うであろう」とすすめたが、西はもちろん一言も答えなかった。この頃、
部隊長は、壕の中でいつもきたない籐椅子に倚りかかり豆らんぷをつけて
部下の報告を聞いていた。粗末な木机の上に拡げた地図には部隊の配置
が描いてあったが、この部隊符号が報告の度に、西の持つ鉛筆で一つ一つ
抹殺されていった。猛烈な砲爆撃下に、にこにこしている部隊長の落着いた
笑顔を見ると、部下たちはたまらない懐しさを覚えた。西はその後、海軍から
貰った取って置きのウイスキーを報告に来る部下たちに少しづつ与えた。
酒飲みの彼はそれだけに察しがあり、部下も隊長の情に感激していた。

戦況は日一日とせっ迫し、3月17日には内地との通信が途絶した。
後で遺族に届いた公報には、西がこの日に戦死したことになっているが、
事実は翌18日に西部隊手持の小さい無線機で父島に向けて、西部隊玉砕
という最後の電報を打った。そして西は、その夜12時を期し、残兵約60名を
かき集めて壕から出撃する覚悟を決めた。
戦車を基幹として歩、砲工各兵種を付属させた総員約1000名もあった西部
隊が、約一ヶ月にわたる激戦の後、動けるものはたった60名ばかりになって
しまったのだ。西はついて行けない負傷兵めいめいの枕元に、2日分の食糧
を置いてやった。そして一人一人にやさしく別れを告げていた。
多数の部下を殺し、或は傷つけた西は、一日生きのびることが一思いに死ぬ
よりも、はるかに苦しかった。しかし、彼はその苦しさに堪えて、部隊長として
の最後の責任を果そうとしていた。かれこれするうちに時間も過ぎて、翌19
日午前2時頃、西部隊は西海岸の銀明水付近を目標として出撃した。19日
の夜と20日、銀明水の壕で頑張った。壕の中で西は煙草をくゆらしながら、
沈思黙考していた。隊長の泰然たる態度を仰ぎ見た残り少ない部下たちは、
心強くもあり、叉気高くも感ぜられた。

20日の夜、西は残兵を提げて、食糧や弾丸を補充する為、今一度前にいた
部隊本部の壕に引返した。その壕は地下3階までの設備があった。壕に着
いて間もなく、21日の明け方に猛烈な攻撃を受け、地下1階、2階に臥てい
た負傷兵は、火炎放射器で見る見るうちに黒焦げになって了った。若い将兵
の中には精神が錯乱してさわぎ廻るもの、沈んでしまうもの等色々で、西は
その統御に骨身をけづった。しかし一度命令が下ると彼等は兎に角実行し
た。地下2階の壕で指揮を取っていた西も、半面やけどをして繃帯を巻き、
半面は砂塵で失明してしまった。彼は万策尽きて21日夜、再び銀明水まで
出撃した。目標に到達した頃は、本当の闇夜だった。この明け方、うす暗い
中で、静かに水で身を清めている部隊長の姿を見たというものもあった。
愈々死を覚悟した西は、戦況報告書類と部隊長章のついた軍服と軍刀とを
まとめ、部下のある将校に持たせ、東山の陣地を守備していた次級者鈴木
少佐のもとに届けさせた。

3月22日、朝早くから西部隊最後の戦闘が始まった。出撃に当って一同は
乏しくなった糧食を携帯した。「部隊長の分は私が持ちます」申し出た部下
の言葉をさえぎって、西は「こういう非常の時には部隊長も兵も一緒だ」と自ら
骨々した背中に糧食を背負い、9時半か10時頃、副官松山少佐と軍医見習
士官以下をつれて出撃した。 西の戦死の実相については色々な説がある
が、戦後夫人が生還者7、8人から聞いた所を綜合すると、東海岸近くの水
際で戦斗中、戦死したことが略々確実のようである。西の遺骸は敵に発見
されないため、部下の手で砂地を掘って葬られた。部隊長章のついた軍服を
着なかったことは部隊長戦死の情報を与えまいとする西の深慮からであった
のだ。栗林兵団長は3月25日夜、総攻撃を行ない、壮烈な戦死を遂げられ
た。かくして硫黄島に於ける組織的抵抗は終った。  

西部隊の生還者某氏は、隊長始め戦友を硫黄島に残して日本の土を踏んだ
ことを申し訳なく思い、男泣きに泣きながら、以上の実相を西夫人に報告し
た。夫人は「生死は運です。あなたがたが帰って来られたからこそ、西部隊
の最後の模様が明らかとなったので、部隊のご遺族もさぞ喜ばれることで
しょう」とやさしく慰めるのであった。 硫黄島の露と消えた西は齢42、彼は
少年時代から一筋に進んで来た軍人としての使命を部下と共に立派に果し、
充実した男らしい生涯を終った。
西夫人は最近、「主人の遺骨は23年の歳月を経た今日、恐らく風化して、
遺族の許に戻ることは永久にないと思います。主人が生前“俺が死ぬときは
宇宙の中に消えて行くのだ”と語った言葉が思い出されます」と話されたが
胸のつまる思いがする。      つづく


★☆時折こみ上げる涙をこらえながら入力しました。長文をご覧いただき
ありがとうございました★☆
明日は「戦後、再び咲いた花~西中尉とアメリカ青年~」をお送り致します。
お楽しみに!!




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by takozchan | 2006-11-26 13:06 | *バロン西