「現代世界論」考・・
2008年 07月 20日
我らがゼミ、北山gumi親分の授業。。必修「現代世界論」が11日で終了。。
この授業に関しては、書くのに少々パワーがいり、本日ようやく登場と相成りました。
どのような壮大な現代世界の青地図が描かれるのか、青い鳥を探しに出るチルチル・ミチルのような心境で、ワクワクと臨んだ授業でした。
~有視界的な状況のなかにひとり立たされていること、これが21世紀の現代世界の出発点ではないか。だとすれば、われわれはこれからどう生きていけばよいのか。また、よりよい社会関係をつくっていくには何が必要とされているのか~(現代世界論シラバス抜粋)
必修でもあり、90名近くの受講生でいつも教室は満タン状況、毎回教授と受講生の熱きやり取りを含め、熱気ある授業が展開されました。
第一回は、経済新聞のコラム記事から・・17世紀末のフランス文学界で巻き起った「新旧論争」。ギリシャ・ローマの古代人と、17世紀フランスの近代人とではどちらが優れているか、と2派に分かれて論駁し合った・・・と、ここから二分論に発展し、今まであまり物事を突き詰めて考え使っていなかった我が脳が、ギシギシと動き出した瞬間でした。
2回目は、1917年、美術家マルセル・デュシャンが発表した白い磁器のオブジェ・小便器「泉」。。この「作品」に数千万、数億という値がついた。デュシャンは芸術をお金に換算して、その金額によって芸術を評価し崇めるスノップ人士への揶揄のつもり、しかも「芸術」問い直しの機会として提案したものなのに、数億の値がついてしまうという逆説。。生前はちっとも売れなかったのに、今や「ひまわり」の絵に数十億の値がつくゴッホの絵を想い出していました。
次いで、食文化論、近代家族の成立と終焉、北山教授自ら立ち上げた「しがらみ研究会」からしがらみ論、「現代という生物」から情報に追いつかぬ進化・母親負担重く少子化、そして、ななんと失楽園の世界から、ルネ・ジラールの欲望の三角形、性同一性障害まで。。
これら次々と投げかけられるテーマに頭を抱える受講生に、教授曰く・・・
「いずれも百戦錬磨の人生のプロたちである。そのプロたちに対して現代世界論を講じるなど、ほとんど無謀の企てではないか。しかも必修科目として、である。しかし、立教の教師たるもの、ここで必修科目たる必修科目を所以を納得してもらわねば、なあんて考えたら、立教セカンドステージ大学の教員は務まらない。あたって砕けろの熱血先生でいくか、謎かけスフィンクスでいくか、どちらかである。熱血先生は似合わないので、ミニスフィンクスを演じるほかない。」
さて、軍配はいかに??教壇に立って講義されていたかと思うと、突然質問に移り、風の如くサッと一番後ろまで歩み寄り、ちょうど気持ちよくマドロンでいた受講生に、必殺技で鋭く質問!と、楽しい一場面もありました。決して最後尾が安全とは限らないのです。
いくつかのレジュメを拝読して夫曰く、「これは、先の理論だね。きっと10年、20年経ったときにあぁ、あれはこういうことだったんだってわかるんだよ。僕にはよくわかる。」と。。
ホー!頭の悪い私がわかるころは・・この世には存在しないのかも。
ラスト授業の「あるテーマを扱うとは、何を意味するか」という最後の8つの問いかけに、私なりに解釈すると、答えのない論議は、100人いれば100通りの解釈があってよい、その与えられたテーマをきっかけにそれぞれが問題意識を持ち、発展的に物事を考えることーーこれが何より大事なのではと考えが至りました。
問題提起1 : 自分の人生は自分のものか。
2 : 親密性のもつ「力」とは。
3 : 「他者」の感情を共有できるか。
4 : 時間の持つ意味とは。
5 : 世界の悲惨に対してわれわれに何ができるか。
選択肢1 : 何もできない。 選択肢2 : 何かしなければならない。
6 : 世界を理解するとは、どういうことか。
論理的理解と、日常的理解と・・・。
7 : 理解することと、行動することの差は?
8 : 行動することから発生する問題群
最後に渡された新聞記事、大阪大学の石黒教授がいつも研究室の学生に投げかける言葉、「昨日の君はゴキブリとどう違う生き方をしたか」は、毎日食べて、寝て、ただそれだけの連続だとすれば、ゴキブリ同然であり、人間として生きている意味などない。人間しか出来ないことで最も重要なのは、この世の根本的な疑問を考えること。。人間とは何なのかという問いかけに対し、自分なりの揺るぎない見地を確立し、それに従っていきている人間個祖が「個性的」と言うに値するのではないだろうか」
落ちこぼれ第1号としても、かなり脳内革命が進んだことは確か!後期もゼミは続きます。
教授の子供たちとしてヽ(´▽`)/~♪
蒼き戦車隊、ついに卒業式・・前途に幸あれ♪
この授業に関しては、書くのに少々パワーがいり、本日ようやく登場と相成りました。
どのような壮大な現代世界の青地図が描かれるのか、青い鳥を探しに出るチルチル・ミチルのような心境で、ワクワクと臨んだ授業でした。
~有視界的な状況のなかにひとり立たされていること、これが21世紀の現代世界の出発点ではないか。だとすれば、われわれはこれからどう生きていけばよいのか。また、よりよい社会関係をつくっていくには何が必要とされているのか~(現代世界論シラバス抜粋)
必修でもあり、90名近くの受講生でいつも教室は満タン状況、毎回教授と受講生の熱きやり取りを含め、熱気ある授業が展開されました。
第一回は、経済新聞のコラム記事から・・17世紀末のフランス文学界で巻き起った「新旧論争」。ギリシャ・ローマの古代人と、17世紀フランスの近代人とではどちらが優れているか、と2派に分かれて論駁し合った・・・と、ここから二分論に発展し、今まであまり物事を突き詰めて考え使っていなかった我が脳が、ギシギシと動き出した瞬間でした。
2回目は、1917年、美術家マルセル・デュシャンが発表した白い磁器のオブジェ・小便器「泉」。。この「作品」に数千万、数億という値がついた。デュシャンは芸術をお金に換算して、その金額によって芸術を評価し崇めるスノップ人士への揶揄のつもり、しかも「芸術」問い直しの機会として提案したものなのに、数億の値がついてしまうという逆説。。生前はちっとも売れなかったのに、今や「ひまわり」の絵に数十億の値がつくゴッホの絵を想い出していました。
次いで、食文化論、近代家族の成立と終焉、北山教授自ら立ち上げた「しがらみ研究会」からしがらみ論、「現代という生物」から情報に追いつかぬ進化・母親負担重く少子化、そして、ななんと失楽園の世界から、ルネ・ジラールの欲望の三角形、性同一性障害まで。。
これら次々と投げかけられるテーマに頭を抱える受講生に、教授曰く・・・
「いずれも百戦錬磨の人生のプロたちである。そのプロたちに対して現代世界論を講じるなど、ほとんど無謀の企てではないか。しかも必修科目として、である。しかし、立教の教師たるもの、ここで必修科目たる必修科目を所以を納得してもらわねば、なあんて考えたら、立教セカンドステージ大学の教員は務まらない。あたって砕けろの熱血先生でいくか、謎かけスフィンクスでいくか、どちらかである。熱血先生は似合わないので、ミニスフィンクスを演じるほかない。」
さて、軍配はいかに??教壇に立って講義されていたかと思うと、突然質問に移り、風の如くサッと一番後ろまで歩み寄り、ちょうど気持ちよくマドロンでいた受講生に、必殺技で鋭く質問!と、楽しい一場面もありました。決して最後尾が安全とは限らないのです。
いくつかのレジュメを拝読して夫曰く、「これは、先の理論だね。きっと10年、20年経ったときにあぁ、あれはこういうことだったんだってわかるんだよ。僕にはよくわかる。」と。。
ホー!頭の悪い私がわかるころは・・この世には存在しないのかも。
ラスト授業の「あるテーマを扱うとは、何を意味するか」という最後の8つの問いかけに、私なりに解釈すると、答えのない論議は、100人いれば100通りの解釈があってよい、その与えられたテーマをきっかけにそれぞれが問題意識を持ち、発展的に物事を考えることーーこれが何より大事なのではと考えが至りました。
問題提起1 : 自分の人生は自分のものか。
2 : 親密性のもつ「力」とは。
3 : 「他者」の感情を共有できるか。
4 : 時間の持つ意味とは。
5 : 世界の悲惨に対してわれわれに何ができるか。
選択肢1 : 何もできない。 選択肢2 : 何かしなければならない。
6 : 世界を理解するとは、どういうことか。
論理的理解と、日常的理解と・・・。
7 : 理解することと、行動することの差は?
8 : 行動することから発生する問題群
最後に渡された新聞記事、大阪大学の石黒教授がいつも研究室の学生に投げかける言葉、「昨日の君はゴキブリとどう違う生き方をしたか」は、毎日食べて、寝て、ただそれだけの連続だとすれば、ゴキブリ同然であり、人間として生きている意味などない。人間しか出来ないことで最も重要なのは、この世の根本的な疑問を考えること。。人間とは何なのかという問いかけに対し、自分なりの揺るぎない見地を確立し、それに従っていきている人間個祖が「個性的」と言うに値するのではないだろうか」
落ちこぼれ第1号としても、かなり脳内革命が進んだことは確か!後期もゼミは続きます。
教授の子供たちとしてヽ(´▽`)/~♪
蒼き戦車隊、ついに卒業式・・前途に幸あれ♪
by takozchan
| 2008-07-20 17:20